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奈良の新たな世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」を訪ねる 【酒船石遺跡、藤原宮跡】

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旅行

2026/10/29
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取材・文・写真/鈴木拓也

藤原宮跡を一望に臨む。

新連載の第二弾。今回は、飛鳥の地に散在する謎めいた石造物の代表格と、持統天皇の代に完成した宮地跡を取り上げる。

前回(【飛鳥宮跡、飛鳥京跡苑池、飛鳥水落遺跡】)はこちら→https://serai.jp/tour/1284087

謎が謎を呼んだ酒船石遺跡

飛鳥宮跡から北東に300mほど離れた、奈良県立万葉文化館そばに竹林の低丘がある。この一帯を酒船石(さかふねいし)遺跡と呼び、丘のてっぺんに酒船石がある。東西約5m、南北約2m、厚さ約1mの一枚岩で、上から見ると穂先状である。

酒船石。

この石は、江戸時代に両側がかなり割り取られ、一説によれば高取城の石垣に使われたという。つまり、もとはずっと大きかったのである。上面は平たく、人工的に彫られたくぼみが複数あり、くぼみ同士は溝でつながっている。

7世紀中頃の斉明天皇の代に造営され、平安時代初期まで使用されていたという。その後は忘れ去られたような存在となり、使用目的を知る者もいなくなった。江戸時代の地元の言い伝えでは酒を造る石とされ、それでこの名がついている。ちなみに松本清張は『火の路』で、主人公にゾロアスター教の祭壇だと言わせ、手塚治虫は『三つ目がとおる』で、人を意のままに操る効能を持つ秘薬の調合台だとしている。もちろんフィクションの世界の話であり、考古学的には、水銀朱を作るため、菜種油を精製するためなど諸説分かれた。

酒船石のくぼみのクローズアップ。

最近の学説は、何かを作る施設という考え方から離れている。東京学芸大学の木下正史名誉教授は、著書の中で「一種の庭園施設で、たとえば、水を流して杯などを浮かべ、杯が流れいく方向によって占いや呪い(まじない)を行う祭祀・儀礼施設の一部ではないか」と唱えている。

その説を補強するのが、近年の発掘調査で露わになった亀形石造物である。場所は、酒船石の少し北。そこには、船形と亀形の導水石造物と湧き水を地上へ導水する施設があり、管を伝って船形、そして亀形の石造物へと水が流れる仕組みになっている。何か生活上の実用性があるとは思えない。

復元された導水石造物。

最近の研究では、宮仕えの役人らが、天皇による祭祀の前に身を清める禊(みそぎ)を行った施設と推測されている。

約1km四方もの広さがあった藤原宮

約1世紀にわたり5代の天皇が、現在は飛鳥宮跡と呼ばれる地において宮を営んだ。

持統天皇8年(694)、持統天皇はここから遷宮した。国づくりに伴って行政組織が拡大し、手狭になったこと、そして中央集権国家にふさわしい宮と都を欲したのが遷宮の理由である。

実は、その前の天武天皇の代から、遷宮の計画は進められていた。しかし、新しい宮地が決定してほどなく、天皇は崩御し、皇太子の草壁皇子も没して計画が停止してしまう。

それが再開したのは、持統天皇が即位した年のこと。視察に始まり、宅地班給、宮地鎮祭などを経て遷都が実現した。宮の名は藤原宮、都は新益京(あらましのみやこ、現在は藤原京の呼び名が定着)と言った。

藤原宮は約1km四方もの広さがあり、約5mの高さの塀で囲まれ、12か所に通用門が設けられた。その周辺を役人らの邸宅などが取り囲んで、人口数万の藤原京を形成した。その広さは約5km四方におよび、平城京や平安京よりもやや広い。藤原京は、東西を走る大通り(条)と南北を走る大通り(坊)を碁盤目状に整備した条坊制を、初めて導入した点でも画期的であった。

現在われわれが訪れることができる藤原宮の跡地は、一面が平地で、往時の主要建物の柱の位置を示す列柱が所々にある。下の写真は京の南側で、かつては出仕してきた役人らが南門をくぐって待機する朝集殿があり、手前にメインストリートである朱雀大路が延びていた。朝集殿の北は、政庁である朝堂院が立ち並んでいた。

朝堂院南門跡の付近。

北へ歩いていくと、一群の樹木が生い茂っている場所へ差し掛かる。ここに、天皇が政務や儀式を執り行う大極殿院(だいごくでんいん)があった。当時において日本最大の建築物で、正面45m、奥行21mと幅広で、高さは25mもあった。

大極殿院南門跡地。

膨大な資力・労力を費やして生まれた藤原京であったが、たったの16年と意外なほど短命に終わっている。早くも慶雲4年(707)に遷都の審議が始まり、和銅3年(710)に平城京へと遷都した。理由は、正史では平城京が吉相のある地だからとしか述べていない。実際は藤原京が、水はけが悪く衛生的な問題を抱えていて、藤原不比等が政治基盤の確立を欲したためなど、様々な要因が重なっての遷都であったと考えられている。

遷都にあたって、大極殿をはじめ藤原京の建物の多くは解体されて新都に運ばれた。平成22年(2010)に平城宮跡に復元された第一次大極殿は、移築された藤原宮大極殿のありし日の姿を今に伝えている。

【主要参考図書】
『飛鳥・藤原の歴史と遺産 上』(木下正史著/吉川弘文館)
『飛鳥・藤原の歴史と遺産 下』(木下正史著/吉川弘文館)
『一冊でわかる飛鳥・奈良時代』(大石学監修/河出書房新社)
『宮殿の古代史』(海野聡著/集英社)
『飛鳥・藤原の宮都』(来村多加史著/NHK出版)

取材・文・写真/鈴木拓也
老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライターとなる。趣味は神社仏閣・秘境めぐりで、撮った写真をInstagram(https://www.instagram.com/happysuzuki/)に掲載している。

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