
神奈川・鎌倉の「コールドストーンクリーマリー」が閉店すると聞き、私(佐藤)は慌ててお店を訪ねた。関東、いや東日本唯一の店舗が開店からわずか3カ月でなくなってしまう。まさかこんなに急に閉店することになるとは。閉店前日に利用できたのはよかったけど、次はいつ利用できるのか。再び関東に帰ってくるかも不明だ……。
お店を利用した後にひと息つこうと、ふらりと小さな喫茶店に入った。そこで私は、ある日本語を久しぶりに耳にした。その言葉は日本人なら誰でも知っているのに、自ら口にすることは少なく、また聞く機会もまれな美しい言葉である。
店主は会計を済ませて席を立ち、店を出るお客さんに「さようなら」と言ったのだ。
・たやすく口にできないのは…
「さようなら」、この言葉を最近自ら発したのは、いつだろうか? 思い出すことができない。友達や知り合いと別れるときには、「バイバイ」とか「またね」とは言うけど、「さようなら」とは決して言わない。
なぜなら、決別を意味しているように感じられるからだ。またいずれ会うと思う人に対して、言うべきではないとさえ思っている。次の約束のない人、たとえば卒業式とか送別会などでは、もしかしたら使うかもしれないけど、それにしたって、相手を突き放すような気がして憚(はばか)られる。
「さようなら」の意味するところを言葉通りに汲み取るなら、「左様(さよう)ならば」と相手の言葉やその場の状況を受けている。本来は別れの挨拶につながる接続詞であり「左様ならばこの辺でお別れしましょう」といった具合。
現代的にいえば「そうでしたら」「そのようであるならば」となるだろうか。英語の「Goodbye」(「God be with ye」(神のご加護を))や、スペイン語の「Adiós」(神の御許へ)のように、相手の行く道を気遣うニュアンスはない。
また、イタリア語の「Arrivederci」(私たちが再び会う時まで)や中国語の「再見」(また会いましょう)のように、再会を願うニュアンスを持つものでもない。
思えば、とても切ない意味を持つ言葉だ。相手の行く道を気遣うでもなく、再会を願うでもなく、肯定的ではあるけど、温かみに欠ける気がしないでもない。人と人とが交わった接点が解けて、再び交わることがないような、別れの本質が垣間見える。
「さようなら」
別れの寂しさを象徴している気がするから、たやすく口にできないのかもしれない。
・親しい間柄でも言っていた
なぜ寂しさを感じるのか? おそらく「さようなら」と歌う曲の影響が少なからずあるからだと思う。たとえば小学校でも習う有名な合唱曲『さよなら友よ』(作詞阪田寛夫、作曲黒澤吉徳)や、同じく合唱曲『今日の日はさよなら』(作詞・作曲金子詔一)など、「さようなら」の風景を悲しく切ないものに描いている。
実際その風景は悲しく切ないものではあるが、「さようなら」のすべての風景がそうであるとは限らない。小学校の終業時に「先生さようなら、皆さんさようなら」と毎日言っていたのに、毎日切なくはなかったはず。なのに、すっかり切ないものであるかのような印象が染み付いてしまって、口にしにくい。
でも、本来は小学校の終業時に繰り返すような、親しい間柄で日常的に使うべき挨拶ではないのか?
・日常の境界線
鎌倉の喫茶店の店主は、席を立つ客に言う。「ありがとうございました。さようなら~」。その声はとても軽やかで、美しく店内に響く。そこに別れの寂しさはなく、むしろ快く送り出すような「いってらっしゃい」というニュアンスさえある。
鎌倉は観光地ゆえに、利用客の多くが地元の人とは限らない。そんなお客を「さようなら」と送り出すのは、突き放すような意味合いではなく、快く送り出す気持ちからなのだろう。
そして少なからずまた来てほしいという、再会の希望すら込められているかもしれない。実際、私も「さようなら」と送り出される刹那、また来たいという思いがよぎった。たまたまフラリと入っただけの喫茶店で、よもや「別れ」を感じるとは。そのさようならの一言が、何気ない日常をあたかもドラマのワンシーンのように感じさせてくれたのだ。
ひとつの日常が途絶するとき、またひとつの新しい日常が生まれる。「さようなら」は出会いと別れを、昨日と今日を、そして日常と日常を跨ぐ境界線なのかもしれない。慣れないうちは寂しさが伴うかもしれないけど、何気ない日常をより大切なものに感じさせてくれる、「さようなら」を言おう。
執筆:佐藤英典
Photo:Rocketnews24