特別連載(4) 「適度」なペースをどうやって把握するのか?
安全で楽しい登山を解説して好評の『登山と身体の科学 運動生理学から見た合理的な登山術』(ブルーバックス)。その著者、山本正嘉さん(鹿屋体育大学名誉教授・国立登山研修所専門調査委員)による、運動生理学を踏まえた安全な登山を解説する特別連載をお送りします。
山では「ゆっくり歩く」という心得を守らないと、快適さ、安全、健康のすべてが損なわれます。それなのに多くの人が実行できておらず、そのことに注意も向けられていないようです。そこで、平凡にも見えるこの問題を改めて考えてきました。
今回は、ゆっくりの正体を運動生理学の視点から説明します。そのあとで、それを把握するための5つの方法を紹介します。
大切なのにわかりにくい「適度」
山では何時間も歩くので、ペースが速すぎれば(=運動強度が高すぎれば)バテてしまいます。一方、非常にゆっくり歩けばバテる心配はなくなります。しかし時間がかかり過ぎて、必要な時刻までに下山できないなど、別の問題が起こってきます。
そこでその中間、つまり疲労を起こさず、しかも時間的には無駄のない「適度」な速さで歩くことが求められます。ここまでは誰もが納得できるでしょう。
ちなみに健康づくりの運動でも、身体に無理をさせずに最大の効果を得るために、適度な強度で行いましょうと言われます。したがって山を適度なペースで歩くことは、健康にとって最大の効果をもたらす運動をすることにもなるわけです。
これに対して、速すぎるペースで歩けばバテるだけでなく、健康を損ねるようなトラブルも起こってきます。さらには、それが事故の引き金にもなります。残念ながら、そのような歩き方をしている人が多いことは、これまでに述べてきた通りです。
適度なペースで歩けば、快適で、トラブルも起こらず、健康も改善します。反対に、過度なペースで歩けば、きついだけでなく、健康にもマイナスの影響を与え、事故の危険性も増します(まさに3Kです)。前者はいいことずくめ、後者は悪いことずくめなのに、なぜそれができない人が多いのでしょうか。
そこで改めてですが、皆さん自身で次のことを考えてみて下さい、適度なペース(適度な運動強度)とは、どのような身体の状態を言うのでしょうか? そしてどうすればそのペースで歩けるのでしょうか? 初心者に説明するつもりで、言葉で表現してみて下さい。
ここまで来ると、わかっているようでわかっていない、という人が多くなると思います。また「自分はわかっている」と主張する人でも、運動生理学の目で見ると、適度からは外れている場合も多いのです。そもそも適度という言葉自体、耳ざわりはいいものの、漠然としています。
このような背景を踏まえて、まず適度について正しく理解することから始めます。
過度なペースを適度だと思っている人が多い
山道ですれ違う人と挨拶をしたり、会話したりするのは気持ちのいいものです。その際には筆者の仕事柄、その人達の歩いている様子をつい観察してしまいます。
それで改めて感じることは、息を切らしている人が多いこと、また足どりを見てもペースが速いことです。太り気味の中高年男性がかなり息を切らしていれば、心臓のトラブルを起こさないだろうかと心配にもなります。
登山の教本には「会話ができるペースで」とか「息が切れないように」と書いてあります。しかし息が切れていても、元気な会話ができてしまう場合も多いのです。本人も「この程度ならば息は切れていない」と思っているように見受けられます。
経験者に訊ねてみても、「多少は息が切れるのはあたりまえだと思っていた」「ある程度のきつさは我慢して歩くことが必要だと思っていた」という人は多く、「息を上げないと山を歩いた気がしない」という人もいました。しかし運動生理学の目から見ると、これらの強度はすべて過度なのです(注1)。
「息を切らさないように歩こうと思っても、やってみると中々できないのです」と話してくれた人もいました。このことは、たとえ意識はしていても、ゆっくり歩くことが思いのほか難しいことを示しています。
筆者たちは最近、あとから紹介する登高/下降速度計を使って、適度な歩行ペースを体験する講習会をやっています。そこでの参加者の反応は一様に、「こんなにゆっくりだとは思わなかった」「こんなにゆっくり歩いてもいいのですね!」というものでした。多くの人が意外だった、驚いたというのです。
また後日、「講習会で教わったペースで歩いたら、いつもの山で必ず一息入れる場所を、楽に通過できてしまい驚いた」と報告してくれた方もいました。
以上のことから、多くの人では、本来の適度よりもだいぶ速いペースを適度だと思っていることがわかるのです。
運動生理学からみた適度とは?
それでは、身体にとって本当の意味での適度とは、どこにあるのでしょうか?
平地を自分の足で移動する運動を思い浮かべてみてください。ゆっくり歩きから始め、徐々にスピードを上げ、普通歩き→早歩き→ジョギング→ランニング→ダッシュと変化させていきます。
このとき身体では、1. 心臓がドキドキする、2. 息がハアハアする、3. 脚の筋が疲れて動かなくなってくる、などの変化が起こります。また、4. 主観として感じるきつさも増していきます。
生理的に見ると、1. は心拍数の増加、2. は換気量(呼吸量)の増大、3. は筋での乳酸の蓄積、という変化が起こっているのです。4. はその総和としての身体感覚ということになります。
図1はこれらの変化を模式図にしたものです。どれも運動強度が上がれば上昇していくのですが、その様相は違っています。
- 心拍数は、運動強度に比例して直線的に増加します。
- 換気量は、序盤では緩やかに、中盤では少し急に、終盤では急激に増加します。
- 乳酸は、強度の低い運動では蓄積せず、安静レベルを保ちます。そして、ある強度以上になると少し蓄積します。また、さらに高い強度になると急激に蓄積します。
- きつさの変化は1. と同じで、運動強度に比例して直線的に増加します。
ここで特に注目していただきたいのは3. の乳酸値です。乳酸はそれが蓄積した分だけ筋を疲労させます。つまり乳酸値の大きさが疲労度の指標となるのです(注2)。
乳酸値が安静値から増加し始める運動強度を、しきい(閾)に見立てて「乳酸閾値(いきち)」と呼びます。また運動の後半で、乳酸値がより急激に上昇する強度を、本稿では「第2の乳酸閾値」と呼ぶことにします(注3)。整理すると、
- a:乳酸閾値を超えない強度で運動すれば、疲労は起こりません
- b:乳酸閾値を少し超えた強度で運動すると、少し疲労が起こります
- c:第2の乳酸閾値を超える強度で運動をすれば、疲労が急速に進みます
この性質を基に、aを低強度運動、bを中強度運動、cを高強度運動と呼びます。
適度とは「乳酸閾値」を超えない運動
ここで「適度」とは何かという話に戻ると、登山者にとってはaの低強度運動がそれに該当するのです。登山の場合、時間の効率も考えると、乳酸閾値の少し手前のペースで歩くのがベストということになります(健康にとってもベストです)。このペースで歩けば、まる一日、同じペースを保って歩き続けられます。
反対に、cの高強度運動ペースで歩けば、短時間で疲労してしまいます。初心者が無茶なペースで歩いて、1時間もしないうちにバテてしまうのはその典型です。
では経験者ではどうかといえば、cで歩く人はいないものの、bの中強度運動ペースで歩く人はかなり多い、というのが筆者の観察結果です。この強度ならば、2~3時間くらいはさほどの支障もなく歩けるので、ついこのペースになりがちです。
しかし疲労が少しずつ進行していくので、もっと時間が経てばペースが落ちてきたり、本連載第2回の図4に挙げたような様々なトラブルが起こってきます。またこの時に、ペースを落とすまいと頑張れば、これらのトラブルはさらに深刻化します。
登山者にとって、aの運動領域は平常時用、bは予備用、cは緊急時用のペースです。体力という用語を使って、aを平常時用(基礎)体力、bを予備体力、cを緊急時用体力と呼ぶこともできます。
平常時にはaのペースで歩きます。天候の悪化などで少し急ぎたい場面では、一時的にbのペースで歩きます。cはごく短時間しか続かないので、野生動物や鉄砲水の襲来時など、まさに緊急時に限って使う体力です。
bは予備体力なので、いざという時のために温存しておくべきです。それを平常時の歩行に使って消耗させてしまうと、本当に必要な時に使えず破綻を来すことになります。しかし現実には、経験者でもこのペースで歩いている人が多いのです。