今年(2026)7月、一人の元零戦パイロットが109歳で亡くなった。大正6(1917)年生まれの三上一禧(かつよし)氏がその人である。じつは零戦の元搭乗員で100歳の大台を超えたのは三上氏が初めてだった。
三上氏は、いまから86年前の昭和15(1940)年9月13日、第十二航空隊の一員として、いまや伝説的ともいえる中国大陸・重慶上空の零戦のデビュー戦に参加した。中華民国空軍のソ連製戦闘機に対し、一方的な勝利をおさめたこの日の零戦搭乗員は13名、三上氏の逝去で全員が故人となった。大戦初期の「無敵零戦」神話の始まりとなった空戦に参加した男たちのその後の運命とは――。
【前編を読む】敵機30機のうち27機を撃墜…無敵神話の始まりとなった「零戦の初陣」
堀越二郎率いる三菱重工業が開発
零戦は、昭和11年に制式採用された九六式艦上戦闘機(九六戦)の後継機として計画され、昭和12年5月、海軍が、当時日本有数の航空機メーカーだった三菱重工業、中島飛行機に「十二試艦上戦闘機(十二試艦戦)」の計画要求書案を示したときから開発が始まった。「艦上戦闘機」とは、航空母艦上での運用を前提とした戦闘機を意味する。
計画要求書を両社が検討中の同年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日本陸軍と中国国民党軍が衝突。この「盧溝橋事件」に端を発する「北支事変」の戦火は、8月9日、上海にも飛び火し(第二次上海事変)、次第に日中両軍の全面戦争の様相を呈していった。9月2日、それぞれの事変を合わせて、「支那事変」と呼称することが閣議決定された。
中島はその後、開発を辞退したが、九六戦を世に出した堀越二郎技師を設計主務者とする三菱の開発陣はそれに応え、海軍の要求を満たす高性能な戦闘機を開発する。
十二試艦戦の試作第一号機は昭和14年(1939)4月1日、初飛行に成功。さまざまなトラブルを解決しながら、海軍航空技術廠飛行実験部と横須賀海軍航空隊(横空)で、テスト飛行を続けた。
支那事変は泥沼化し、4年めを迎えようとしていた。日本軍に南京を追われた中国国民政府は、重慶に首都を移して根強い抵抗を続けていた。
昭和15(1940)年5月、日本海軍は、陸軍航空部隊とも協力し、重慶を大規模かつ継続的に爆撃する「百一号作戦」を発動した。
