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ジョセフ・ヒース「方法論的個人主義(Stanford Encyclopedia of Philosophy)」

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集団の利益を同定するところから、個人にその集団利益を帰属させるところへと、あまりにも安易に「降りて」しまう〔…〕誤謬を避ける1つのやり方が、社会科学者に対して、常に参加者の視点からインタラクションを検討し、個々人の意思決定を支配している選好構造がどのようなものなのかに目を向けるよう求めることだったのだ。
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本記事は、ジョセフ・ヒース教授によるThe Stanford Encyclopedia of Philosophy(以下SEP)のエントリ、「方法論的個人主義(Methodological Individualism)」の翻訳です。本翻訳は、SEPのアーカイブに収録されている2024年夏版(Summer 2024 version)に基づいています。

本翻訳の公開後にSEPの原記事が更新されている可能性があるため、本翻訳の内容は現在のバージョンとは異なる場合があります。ご注意ください。最新版はSEPの「Methodological Individualism」のページで確認できます。

本エントリの翻訳およびウェブ上での公開を許可してくださったジョセフ・ヒース教授、ならびに The Stanford Encyclopedia of Philosophy編集部に、心より感謝申し上げます。また、本翻訳の監修をお引き受けくださった瀧澤弘和先生にも、深く感謝申し上げます。

* * *

方法論的個人主義は、社会科学における方法論的指針としてマックス・ウェーバーによって導入されたもので、これは彼の『経済と社会』(1922)の第1章においてとりわけ重要な形で提示されている [1] … Continue reading 。方法論的個人主義とは、次のような主張を指す。すなわち、社会現象を説明するには、それが個人の行為からいかにして帰結するかを示さなければならず、そして個人の行為は、行為者を動機づける志向的状態(intentional states)を参照して説明しなければならない。言い換えれば、方法論的個人主義は、後にタルコット・パーソンズが「行為の準拠枠(the action frame of reference)」と呼んだもの(Parsons 1937: 43–51)を、社会科学的説明において最も重視する立場である。これはまた、「マクロ」な社会現象の説明は、行為理論的なメカニズムを特定する「ミクロ」的基礎づけを与えられなければならない、という主張だと述べられることもある(Alexander, 1987)。

J・W・N・ワトキンス(Watkins 1952a)に倣い、方法論的個人主義と方法論的全体主義(methodological holism)が対照的なものとして論じられることも多い。だが、このような論じ方は多くの場合、偏っている。方法論的全体主義者を自称する社会科学者はごく少数しかいないからだ(「社会科学における方法論的全体主義(Methodological Holism in the Social Sciences)」のエントリを参照)。とはいえ、社会科学的説明の中には、方法論的個人主義の立場からすると拒否されたり割り引いて評価されたりする一方で、多くの熱心な支持者を抱えているものも存在する。最も重要な例として、機能主義、(様々なタイプの)社会生物学、文化進化論的説明、精神分析あるいは「深層解釈学」的方法、そして純粋な統計分析に基づく説明的一般化、が挙げられる。

方法論的個人主義の擁護者の多くは、それがいかなる政治的・イデオロギー的内容も持たない、汚れなき教義である、と主張してきた。ウェーバー自身、「『個人主義的』方法がいかなる意味であれ個人主義的な価値体系を伴っているはずだと考えるのは大きな誤解である」と警告している(Weber 1922: 18) [2]訳注:阿閉吉男・内藤莞爾訳『社会学の基礎概念』恒星社厚生閣、p. 26。訳文は改変している。 。にもかかわらず、方法論的個人主義の教義は、20世紀に生じた非常に政治的な論争の数々に巻き込まれていった。これは大部分、方法論的個人主義が史的唯物論の信頼性を失わせるものとして引き合いに出されがちだったことによる。この観点からすると、方法論的個人主義を巡る論争には2つのラウンドがあったと言える。第1ラウンドは、フリードリヒ・フォン・ハイエクとカール・ポパーの議論に対する反応として、1950年代に始まった。第2ラウンドは、ヤン・エルスターの主張に対する反応として、1980年代に生じた。これは、「分析マルクス主義」として知られる学問運動の内部で起こった批判的論争の一部だった。第2ラウンドの時期に、方法論的個人主義は「合理的選択論帝国主義(rational choice imperialism)」と呼ばれるものと広く結びつけられるようになった。

目次

方法論的個人主義(methodisce individualismus)という言葉は、実はヨーゼフ・シュンペーターが、1908年の著作『理論経済学の本質と主要内容』(Schumpeter 1908)で生み出したものだ。英語における「方法論的個人主義(methodological individualism)」の初出も、シュンペーターによる1909年のQuarterly Journal of Economicsでの論文「社会的価値の概念について」(Schumpeter 1909)である(Udehn 2001, 214を参照)。とはいえ、方法論的個人主義の教義を理論的に精緻化したのはウェーバーであり、シュンペーターもウェーバー的見解を指すためにこの語を用いている。

ウェーバーは『経済と社会』において、方法論的個人主義の中心的指針を次のように提示している。社会現象について論じる際、私たちは「国家、組合、営利企業、財団といった社会的集合体を、まるで個人であるかのように」語りがちだ(Weber 1922, 13)。そして、これらの社会的集合体が、計画を持ち、行為を遂行し、損失に苦しむ、といった語り方をしてしまう。方法論的個人主義の教義は、こうした日常的な語り方を問題にしているわけではない。方法論的個人主義が要求しているのは、以下のことだけである。「社会学的研究において、社会的集合体は、人々による具体的な行為の合成の結果ないし組織化の様態として扱われなければならない。主観的に理解可能な行為を遂行している主体と見なせるのは、個人だけだからだ」(Weber 1922, 13) [3]訳注:阿閉吉男・内藤莞爾訳『社会学の基礎概念』恒星社厚生閣、p. 20。訳文は改変している。

ウェーバーにとって、方法論的個人主義へのコミットメントは、社会学における「理解」的(あるいは解釈的)な説明パターンへのコミットメントと非常に密接に関係している [4]訳注:ウェーバーの“verstehende soziologie”は、日本語では「理解社会学」と訳され、英語では“Interpretive … Continue reading 。社会学的説明において、個人の行為に特権的地位が与えられるのは、行為のみが「主観的に理解可能」であるからだ。ウェーバーの用語法において、「行為(action)」は、様々な人間行動のうち、特に言語的に定式化された(あるいは「意味を持った」)心的状態によって動機づけられたものを指す語として用いられている(ざっくり言えば、咳をするのは行動(behavior)だが、咳をした後で謝るのは行為(action)である)。現代風の言葉遣いに直せば、「行為を行為たらしめる特徴は、命題的内容を持った心的状態(すなわち志向的状態)によって動機づけられていることだ」と言い換えられる。私たちは、行為主体の内にある動機を理解できる能力のおかげで、行為に対して解釈という仕方でアクセスできる。だからこそ、ウェーバーにとって行為は重要なのだ。行為に対してこうした解釈的なアクセスが可能であるため、社会科学者は「自然科学では決して達成できないこと、すなわち社会を構成する個々人の行為の主観的な理解を実現する」ことができる(Weber 1922, 15) [5]訳注:阿閉吉男・内藤莞爾訳『社会学の基礎概念』恒星社厚生閣、p. 23。訳文は改変している。 。それゆえ、行為理論的説明は社会科学的分析の中心に位置する。人々がなぜそのような行為をとったのか知ることなしに、人々が関わっている大規模な社会現象が生じた理由を真に理解することはできないからだ。

そのため、方法論的個人主義というのは、用語としては少々ミスリーディングである。方法論的個人主義の目標は、社会科学的説明において、集合体よりも個人に特権的地位を与えることではなく、行為理論レベルの説明に特権的地位を与えることだからだ。行為理論レベルの説明の特権扱いは、社会現象の「理解」を提供することを目標とする理解社会科学の構造によって要請されたものなので、あくまで「方法論的」なものである。行為は、志向的状態によって動機づけられているがために、他の社会現象には不可能な仕方で理解可能となる。だが、志向的状態を持つのは個人のみなので、行為を方法論的に特権扱いすることは、個人を方法論的に特権扱いすることを含意する。それゆえ、方法論的個人主義における「個人主義」は、この立場を動機づける要因というより、この立場の中核的な理論的コミットメントに伴う副産物と言う方が正しい(この文脈で、集団的志向性の論者たちは、集合体に志向的状態を帰属するのは適切だと考えているため[List and Pettit 2011]、個人主義へのコミットメント抜きに「理解」という方法を採用できる、ということに触れておくべきだろう。「共有された行為主体性(shared agency)」のエントリを参照)。

ウェーバーの意味での方法論的個人主義と、社会科学において古くから存在する「原子論」(あるいは存在論的個人主義)の伝統との違いを強調しておくのは有益だ。多くの研究者は、方法論的個人主義の起源がオーストリア学派(特にカール・メンガー)にあり、そしてこの教義は1880年代の「方法論争」で明示された、と主張している(Udehn 2001)。だが、その起源はさらに、トマス・ホッブズが『リヴァイアサン』の序章で提示した「分解-合成」的方法にまで遡る、と主張する論者もいる(Lukes 1968, 119)。しかしながら、この種の原子論の際立った特徴は、ホッブズの次のような主張によって非常に明解にまとめられている。ホッブズは、「人間を、互いに対していかなる拘束も受けず、あたかもつい今しがた突然に大地から(キノコのように)生じて成長してきたものであるかのように考える」べきだと主張した(Hobbes 1651, 8:1) [6]訳注:本田裕志訳『市民論』京都大学学術出版会、p. 175。訳文は改変している。 。このような〔ホッブズ的〕原子論の根底には、次のような見解がある。すなわち、完全に前社会的な個人の心理を完璧に特徴づけることが可能であり、さらに、そのように特徴づけられた個人が集まって相互作用し始めたときに何が起こるかを演繹的に推論できる、という見解だ。一方で、方法論的個人主義は、個人を動機づける志向的状態の内容について、いかなる具体的な主張にもコミットしておらず、人間心理が還元不可能な仕方で社会的な側面を持つ、という可能性を全く排除していない。そのため、原子論と方法論的個人主義の違いを際立たせる1つの方法は、原子論をとる場合、社会学が心理学に完全に還元される一方、方法論的個人主義の場合、そのような含意はない、と述べることだ。

最後に、ウェーバーの方法論的個人主義へのコミットメントは、彼の提示したもっと有名な方法論的教義、すなわち「理念型(ideal types)」の理論と密接に関係している、ということを記しておくべきだろう。歴史学的説明ならば、歴史上の具体的な個人を動機づけた実際の志向的状態の内容を参照するかもしれない。だが、社会学者はもっと抽象的な説明的一般化を行おうとしているので、具体的な個人の特定の動機に訴えることはできない。それゆえ、社会学理論は人間行為のモデルに基づかなければならない。そして、「理解」が課す制約のために、このモデルは合理的な人間行為のモデルでなければならない(ウェーバーは次のように述べている。「行動の非合理的な側面、あるいは感情的に決定される側面の全ては、合理的行為という、概念的に純粋な類型からの逸脱要素として扱うのが便利である」[Weber 1922, 6] [7]訳注:阿閉吉男・内藤莞爾訳『社会学の基礎概念』恒星社厚生閣、p. 10。訳文は改変している。 )。

それゆえ、ウェーバーの方法論的個人主義の最も重要な帰結の1つは、合理的行為の理論を社会科学的探究の中核に据えたことだ。後続の社会理論家たちが、ウェーバーの影響の下、いわゆる「行為の一般理論」(経済学的な行為モデルを拡張し、とりわけ社会学、人類学、心理学の重要な行為理論的洞察を組み込もうとする理論)の構築による社会科学の方法論的統一を目指したのはこのためだ。20世紀前半のタルコット・パーソンズの仕事はこの点で最も重要であり、1951年の『行為の一般理論に向けて』(Parsons and Shils eds. 1951)(パーソンズとエドワード・シルズの共編著) [8]訳注:邦題は『行為の総合理論を目指して』。 の出版において、方法論的統一のムーブメントは最高潮に達した。しかし、パーソンズはそのすぐ後に、方法論的統一のプログラムが問題を抱えていることなどを理由に、方法論的個人主義と行為理論へのコミットメントを放棄して、純粋にシステム理論的な見解へと移っていった。こうして、行為の一般理論を構築するプロジェクトへの熱狂は失われることとなった。しかし近年では、合理選択モデルを拡張することでこのプロジェクトを復活させようとする機運も見られる(Gintis 2007)。

方法論的個人主義の課す厳しい条件を最も明確に満たしている分野が、(新古典派限界革命の伝統に連なる)ミクロ経済学であり、ホモ・エコノミクスが合理的行為の最も明晰なモデルであることは、誰もが認識している。もちろん、この伝統は、経済学という領域の中で常に支配的であったわけではない。とりわけ、マクロ経済学的な探究はミクロ経済学から完全に自立した形で成立し得る、と考えている経済学者はたくさん存在する(これは、大学の経済学のカリキュラムが未だに「ミクロ経済学」と「マクロ経済学」に分かれているという事実に現れている)。個々人がどんな動機を持って行為しているのかを完全に無視した形で、景気循環や株式市場の動きをプロットしようと考える経済学者はいつの時代にも存在した。それと同じように、失業率とインフレ率のようなマクロ経済変数の間の相関関係を突き止めようとする際、なぜ一方の値の変化が他方の値を変化させるのかを考える必要はない、と考える経済学者も数多く存在する。そのため、経済学研究者の間では、一般均衡理論の中核にある「合理的行為者」モデルの価値を巡り、常に活発な論争が繰り広げられてきた。

こうした論争は何度も繰り返されてきたが、その中でも最も初期のものの1つは、オーストリア学派とドイツ歴史学派の間で生じた、いわゆる「方法論争(Methodenstreit)」であった。しかしながら、オーストリア学派の「第1世代」にあたるカール・メンガーなどの経済学者は、〔方法論的個人主義者というより〕原子論者だった(メンガーは、自らの採用する個人主義的方法を擁護する際、「複雑な現象をその要素に還元すること」の持つ概念的な利得に訴えている[Menger 1883, 93])。ウェーバー的な方法論的個人主義の教義を明確に自任し、理解社会科学の〔方法論的〕要請という観点からこの教義を擁護したのは、オーストリア学派の第2世代のメンバー、とりわけフリードリヒ・フォン・ハイエクであった。最も重要なテクストは、ハイエクがEconomicaで1942年から1944年にかけて連載していた「科学主義と社会の研究」(Hayek 1942/43/44)であり、これは後に『科学による反革命』(Hayek 1955)の第1部として収録された。

ハイエクの見解によると、社会科学者は物理学を模倣しようと思うあまり、目的論的、あるいは「意図的(purposive)」な概念を過剰に恐れてしまっている。この目的論的な概念への恐怖によって、多くの経済学者は、志向的状態を参照した〔目的論的〕説明を避け、経済変数間の統計的相関関係のみに焦点を当てるようになってしまった。このような焦点化がなぜ問題なのかというと、経済現象が理解不可能なままになってしまうからだ。価格変動を例にとろう。初霜の日付と小麦価格の変動の間に、恒常的な相関関係があることに気づいたとする。しかし、経済主体の合理的行為の観点からこの関係を説明しない限り、この現象を真に理解したとは言えない。つまり、初霜の日付が早いために収穫が減り、それが供給側の価格競争を緩め、消費者側の競争を激化させた〔それゆえ小麦価格が上昇した〕、といった説明を行わなければ、この現象を理解したとは言えないのだ。ここでハイエクは実質的に、あらゆるマクロ経済学的分析は、「ミクロ」的基礎づけを欠いているため不完全だと主張している。

しかしながら、注意すべきは、ハイエクが合理的行為のモデルを自身の見解の中心に据えていたとはいえ、彼の理論は決して合理主義の一形態などではなかった、という点だ。むしろハイエクは、様々な経済現象が、合理的行為の意図せざる帰結として生じ得ることを強く強調していた。人々の生み出した帰結が、人々の意図していた帰結と似ても似つかない場合でも、人々が自ら行為を選択した際に、自身がどんな行為をとっていると考えていたのかを知ることは、依然として重要である。とりわけ、その行為が意図した帰結を生み出していないにもかかわらず、人々が当該の行為を追求し続ける理由を知ることは重要だからだ。

言うまでもなく、ハイエクが方法論的個人主義を支持し、社会科学的説明は行為理論レベルのメカニズムを特定しなければならないと主張したのには、個々の行為者の視点の限界を強調したいという動機もあった。「インフレ率」などのマクロ経済変数について語るのは結構だが、個々の行為者は(一般的に言って)そうしたマクロ経済変数に直接反応しているわけではない、ということを心に留めておくのは重要である。個々の行為者が感知できるのは、生産投入財や消費財を購入するために支払わなければならない、すぐ目の前の価格の変化だけであり、その変化に対して個々の行為者は反応するのだ。そうした価格変化に応じてなされる選択の結果として生じる大規模な帰結は、大部分が意図せざるものである。それゆえ、そうした大規模な帰結にどんな規則性が存在するにせよ、それは〔意図的に設計された秩序ではなく〕自生的秩序なのだ。これは、ハイエクの情報的観点からの資本主義擁護論の最も重要な論点である。経済主体は、経済理論家が手にしているような情報にアクセスしているわけではない。それゆえ、個々の行為者の観点から経済の作動を見ることで初めて、市場のような分権的な調整システムの持つ優位性を理解できるようになるのだ。

ハイエクは、個々人の観点の重要性を説明するために、森の中で小道が形成されていくプロセスを例に挙げている。ある人が、〔木々や草から〕受ける抵抗が最も少ない道を選んで、苦労してその道を進んでいった。その人が道を進んだことで、次にその道を歩く人が受ける抵抗は、ごくわずかだとしても減少する。そのため、次の人もまた、最初の人と同じ意思決定過程を経て、最初の人と同じ道を選ぶだろう。それにより、その次の人が同じ道を選ぶ可能性も高まり、そのまた次の人も同じ道を、という風に続いていく。こうして、誰も小道を作ろうと意図しておらず、どんな道にするかすら計画していなかったとしても、人々が同じ道を通ることによって、最終的に人々が「小道を作った」という結果がもたらされる。これは、自生的秩序によって形成されたものだ。「その森を通る人々の動きは明確なパターンに従うようになるが、それは多数の人々の意図的な意思決定の結果であるにもかかわらず、誰かによって意図的に設計されたものではない」(Hayek 1942, 289) [9]訳注:渡辺幹雄訳『科学による反革命』春秋社、p. 42。訳文は改変している。

ハイエクの見解によると、行為者の観点を無視するのが問題なのは、それが人間の合理的な計画能力やコントロール能力の過大評価に繋がりやすく、それゆえ人々を「合理主義」に陥らせてしまいがちだからだ。これに対して、方法論的個人主義の大きな美点は、私たち自身の持つ理性の限界を突き付ける点にある(Hayek 1944, 33)。「利子率」や「インフレ圧力」、「失業率」といった概念を直接に参照するような理論を作ると、私たちはこうした変数を操作でき、それゆえ経済に対して効果的に介入できる、と考えがちになってしまうかもしれない。こうした概念は、抽象的な構築物であり、個々人の行為の指針として用いられているのではなく、何百万もの個々人の意思決定の最終的な結果を記述するために用いられているのだが、私たちはそのことをすぐ忘れてしまう。方法論的個人主義の重要な特徴は、「個々人が自らの行為に対して行う理論づけの結果からではなく、個々人の行為を導いた諸概念から体系的に議論を始める」点にある(Hayek 1942, 286) [10]訳注:渡辺幹雄訳『科学による反革命』春秋社、p. 39。訳文は改変している。 。それゆえ、方法論的個人主義は、社会計画の能力に関して謙虚になるよう私たちに促す、というのがハイエクの見解である。

ハイエクは1950年代以降、方法論的個人主義に言及していない。実際、後期の著作において進化論的説明が大きな役割を果たすようになったことは、ハイエクが方法論的個人主義の教義へのコミットメントを暗黙の裡に撤回したことを示している。

長年にわたり、「方法論的個人主義」という語は、まず誰よりもカール・ポパーの議論と結びつけられてきた。これは、ポパーの論文「歴史主義の貧困」(Popper 1944/45)、そしてその後の著作『開かれた社会とその敵』(Popper 1945)が巻き起こした広範な論争のためである。しかしながら、ポパーは方法論的個人主義という語を使いながらも、方法論的個人主義へのコミットメントを擁護する議論はほとんど行わなかった。この仕事は、ポパーの門下生だったJ・W・N・ワトキンスに任された。ワトキンスとその論敵たちとの論争によって、多くの人がポパーと方法論的個人主義を(不当にも思えるほど)強く結びつけるようになった(方法論的個人主義の教義が哲学者の間で広く注目されるようになったのも、この論争がきっかけだった)。

不幸なことに、ポパーからその門下生であるワトキンスに引き継がれたタイプの方法論的個人主義は、ハイエクから引き継がれたタイプの方法論的個人主義に比べて、ずっと擁護しがたい代物だった。方法論的個人主義はそもそも、社会科学に固有の要請〔すなわち「理解」〕によって課される指針と考えられていた。ウェーバーとハイエクにとって、このことは、精神科学(Geisteswissenschaften)と自然科学(Naturwissenschaften)との間の重要な差異を反映していた。しかしながら、ポパーは、精神科学と自然科学の間にはいかなる重要な方法論的差異も存在しない、と主張している。実際、ポパーが初めて方法論的個人主義を論じたのは、「歴史主義の貧困」に収められた「方法の単一性」というセクションにおいてであった。ポパーはそこで、精神科学も自然科学も、単に「因果的説明、予測、検証」を行っているだけだと論じ(Popper 1945, 78)、続けて、社会科学において「理解」が特別な役割を果たし得るということを否定している。

このポパーの見解が方法論的個人主義の教義に問題をもたらすことは、たやすく見て取れる。「解釈」を目的としたり、説明戦略の中心に据えたりするタイプの社会科学は、個人の行為を参照した説明に特権的地位を与える、非常に明確な方法論的理由を持っている。行為の背景にある志向的状態こそ、そうした社会科学的探究が「解釈」しようとしている当の対象だからだ。しかし、社会科学者が自然科学者と同じように現象の因果的説明を行うことしかしないのだとしたら、社会科学的説明において個人の行為に特権的地位を与える根拠はなんなのだろうか? 行為に特権的地位を与える方法論的理由はもはや存在しないように思われる。だからこそ、レオン・ゴールドスタイン(Goldstein 1958)や、後のスティーブン・ルークス(Lukes 1968)のような批判者たちは、方法論的個人主義というのは実のところ、形而上学的・存在論的個人主義へのコミットメントを擁護する迂遠なやり方に過ぎない、と主張したのだ。言い換えれば、ポパーの「方法論的個人主義」は実際には、世界が「現実に」どう構成されているかに関する〔存在論的〕主張であり、「社会などというものは存在しない」 [11]訳注:マーガレット・サッチャーの有名な言葉。 という主張をもっともらしく言い換えただけのものに過ぎなかった。ワトキンスが方法論的個人主義を「社会的世界の究極的な構成要素は個人である」という形で再定式化したことで、この印象はさらに強化された(Watkins 1957, 105)。

ワトキンスの議論はまた、方法論的個人主義の方法論的地位に関する疑念を惹起した。それは、彼が社会現象の説明に関して、「不完全(unfinished)な、あるいは中間レベル(half-way)の説明」と、「基底レベル(rock-bottom)の説明」とを区別したためだ。ワトキンスによれば、「中間レベルの説明」は、行為理論的(あるいは個人レベルの)メカニズムを必ずしも特定しないタイプの説明を指し、「基底レベルの説明」は、行為理論的メカニズムを特定するタイプの説明を指す(Watkins 1957, 106)。しかしながら、ワトキンスはこの区別を提示する際、中間レベルの説明(彼はインフレと失業率の関係を例に挙げている)は、私たちが知りたいことの全てを教えてくれるわけではないにしても、必ずしも無意味であったり間違っていたりするわけではない、ということを認めている。ラース・ウデーンが指摘するように、この見解は方法論的個人主義にとって問題をもたらす。なぜなら、社会現象を個人の観点からも説明できるというだけでは、「社会現象を個人の観点から説明すべきだという方法論的ルールは導かれない」からだ(Udehn 2001, 216)。私たちの(科学にとって外的な)目的に照らして、「中間レベル」の知識が得られれば十分であるという場合には、特にそうである。

最後に、ポパーが方法論的個人主義と「心理学主義」、すなわち「社会生活のあらゆる法則は、究極的には『人間本性』の心理学的法則に還元できるはずだ」という見解とを、対照的なものとして紹介していたことは記しておくべきだろう(Popper 1945, 89)。しかし、ポパーの定式化する方法論的個人主義は、少なくともある種の心理学的還元主義と区別がつかないように思われる。少なくとも、ポパー、そしてワトキンスによる方法論的個人主義の定義に従った場合、いったいどうすれば心理学主義にコミットせず方法論的個人主義を支持できるのかについて、多くの論者が困惑してきた(Udehn 2001, 204)。より一般に、ポパーらによる定式化は、方法論的個人主義と原子論の区別に大きな混乱をもたらした(Hodgson 2007, 214)。

ハイエクとポパーが方法論的個人主義の指針を重視したまずもっての理由は、オーギュスト・コントやG・W・F・ヘーゲル、カール・マルクス式の「グランド・セオリー」を避けるためだった。彼らがこの手のグランド・セオリーを避けようとしたのは、それが筋の悪い理論を生み出しやすいと考えたからではなかった。むしろ、グランド・セオリーは「集団主義」 [12] … Continue reading 、「合理主義」、あるいは「歴史主義」といった思考習慣を助長し、全体主義に結びつく、と彼らは考えていたのだ。それゆえ、ハイエクとポパーにとって、「集団主義」、あるいは「集団主義的」思考パターンの害悪は、まずもって〔理論的なものではなく〕政治的なものだった。だが、時が経つにつれ、西洋社会に忍び寄る全体主義の危険は次第に遠ざかっていき、方法論的個人主義を巡る論争の背景にあった集団主義への恐怖もますます弱まっていった。

そのため、方法論的個人主義への関心は次第に薄れつつあり、そのまま完全に忘れ去られてしまう可能性すらあった。しかし、1980年代になって、社会科学者の間でゲーム理論(あるいは「合理的選択論」)への関心が突如として湧き起こった。その理由は2つの単語(と1つの冠詞)に要約できる。すなわち、「囚人のジレンマ(the prisoner’s dilemma)」だ。社会科学者は、集団内の個人が集合的に自滅的な行動パターンにはまってしまう可能性に常に注意を向けてきた。ポール・サミュエルソンの「公共支出の純粋理論」(Samuelson 1954)や、ギャレット・ハーディンの「共有地の悲劇」(Hardin 1968)、マンサー・オルソンの『集合行為論』(Olson 1965)。これらの議論が提示したのは、人々の間に共通利益が存在したとしても、それだけで個々人がその共通利益を実現するために行為するインセンティブを持つようになるわけではない、という状況の明確な例だった。囚人のジレンマのストーリー、とりわけそれに付随したゲームの利得表は、こうしたインタラクション全般の構造を提示するための、シンプルだが強力なモデルを提供したのである(R. Hardin 1982を参照)。

囚人のジレンマの登場は、方法論的個人主義に再び勢いを与えた。囚人のジレンマによって、社会理論家が行為理論レベルの分析を無視した際に陥り得る(そしてよく陥っている)誤りを、かつてない精度で指摘できるようになったからだ。方法論的個人主義は、「集団主義」という政治的な思想犯罪を避ける方法としてではなく、集合行為のダイナミクスに関して誤っていることが証明済みの推論を避ける方法として、重要になった。例えば、古典的な民主政治の「利益集団」理論では、共通利益を持つ集団は、共通利益を追求するインセンティブも持つ、ということが一般に前提とされている(例えば、政治家にロビー活動を行ったり、研究資金を提供したりする、などして)。オルソンの重要な貢献は、そうした共通利益の存在が、共通利益を追求するインセンティブと同じくらい、フリーライダーのインセンティブも生み出す、という点をはっきりと理解させたことにある。個々人は、共通利益を追求することによって利益を得るだろうが、他のメンバーが共通利益を追求している横でサボっている方が、いっそう多くの利益を得られるだろう。結果、誰も共通利益を追求しようとしないかもしれない。オルソンはこの考察を大規模集団にしか適用しなかったが、囚人のジレンマは、このインセンティブ構造が非常にありふれていることを示していた。

方法論的個人主義の歴史に対するヤン・エルスターの貢献は、以上の背景を前提に理解すべきである。エルスターは、マルクス主義の伝統において用いられてきた「機能的説明(functionalist explanations)」(とりわけ、事象を「資本の利益に資する」という観点から説明しようとする議論)に対する、友好的だが辛辣な批判の一環として、方法論的個人主義の教義を提示している。エルスターによれば、機能的説明の問題は、「ある目的を想定しながら、その目的を持つ主体は想定しておらず」、それゆえ、ある種の客観的な目的論へのコミットメントを伴ってしまっている点にある(Elster 1982, 452)。この批判自体に目新しい点はほとんどない。G・A・コーエンがエルスターへの応答の中で論じているように、マルクス主義的機能主義者が、機能的説明を「精密化(elaborations)」できないと考える理由はない(Cohen 1982, 131)。つまり、客観的目的論に依拠することなく、ある現象によって生み出された利益が、いかにして当該の現象を引き起こすか、を特定する補完的説明を与えることは可能なのだ。こうした精密化は、行為理論レベルにおける志向的メカニズムや、ダーウィニズム的な「選択」といったメカニズムを持ち出すことで可能となる(Cohen 1982, 132)。そうなると、エルスターの機能的説明への批判は、「中間レベル」の説明ではなく「基底レベル」の説明を求めるワトキンスの議論の変奏に過ぎなくなってしまう。

それゆえ、エルスターの攻撃を非常に強力なものにしていたのは、マルクス主義理論に内在する客観的目的論への糾弾ではなく、マルクス主義的な「階級分析」の多くが、様々な世界史的主体たちの間で集合行為問題が生じる可能性を見落としている、という指摘であった。例えば、資本家たちが賃金を抑えるために「産業予備軍」を維持している、というおなじみの主張を考えてみよう。この主張が意味するのは、個々の資本家は、限界便益がまだ限界費用を上回っていても、新たに労働者を雇うのを控えなければならない、ということである。個々の資本家にそんなことをするインセンティブはあるだろうか? 個々の資本家には、新たに労働者を雇い入れ続けて他の資本家にフリーライドするという、明白なインセンティブが存在する。労働者の賃金を抑えることによる便益のほとんどは競合企業が享受するが、労働者を新たに雇えば自社の利益となるからだ。言い換えると、産業予備軍を維持することが「資本の利益」に適うというだけでは、個々の資本家が産業予備軍を維持するために必要な措置をとるインセンティブを持つとは限らないのである。

「合理的選択」の視点は、〔マルクス主義者にとって〕いっそう厄介な問題ももたらした。合理的選択論に従えば、〔資本家だけでなく〕労働者階級も、社会主義革命の実行において深刻な集合行為問題に直面する、という指摘がなされたのだ(Elster 1982, 467)。革命運動に加わることには危険が伴うので、他のなんらかのインセンティブ(例えば階級的連帯など)がなければ、共産主義的経済秩序によって労働者の生活水準が向上すると確信している者でさえ、バリケードに足を運ばないかもしれない。だが、その可能性はたいてい見落とされてきた。エルスターによれば、その理由はこうだ。方法論的個人主義という指針を軽視し、機能的説明をいい加減に用いることで、マルクス主義の理論家たちは何世代にもわたり、個々人が具体的な社会的インタラクションで直面する実際のインセンティブを無視してしまったのである。それゆえ、合理的選択論の主要な効果は、行為の準拠枠を無視した社会科学的説明がどう誤り得るかを示す、一連の教訓的なストーリーを提供したことにあった。

エルスターの方法論的個人主義へのコミットメントは、社会科学的説明において「メカニズム」を特定することを求める彼の立場と密接に結びついている(Elster 1989)。ここで求められている「メカニズム」は大抵の場合、個人の行為という観点で構成されることになる。例えばハイエクが挙げた、森の中で小道が形成されていくプロセスを例に考えてみよう。観察者は、最終的にできあがった小道を見て、人々はいったいどうやってこんなことを成し遂げられたのか、と不思議に思うだろう。小道を作った人々は、いかにして1つの経路を形成するようコーディネートできたのだろうか? ハイエクは、1人がその経路を通ることで、次の人にとってその道が少しだけ通りやすくなる、というシナリオを提示していた。このシナリオは、小道がどのように形成されたのかという問いに答えるものであり、人々の間でコーディネーションが達成されるメカニズムを提示している(Hayek 1942, 289)。だが一方で、小道が形成されるプロセスを説明する際に持ち出されるメカニズムは、必ずしも個人の行動や意図を参照していなくてもよいように思われる(Kincaid 2014, 146)。それゆえ、「メカニズム」を巡る論争(これはいわゆる「分析社会学」(Hedström 2005)の勃興をもたらした)は、方法論的個人主義を巡る論争から分岐して生じた議論と理解するのがもっともらしい。

エルスターは、機能的説明への批判から一歩進んで、方法論的個人主義を支持するための独自の主張を展開しているわけではない。かわりに、方法論的個人主義の歴史の中でも初期にあたるウェーバー的な定式化に回帰し、〔社会科学的説明における〕意図的行為の重要性を強調している(Elster 1982, 463)。エルスターは、「社会生活の基礎的な単位は、個々人の行為である」と述べる。「社会制度や社会変動を説明するとは、それらが個々人の行為やインタラクションの結果としてどのように生じたか、を示すことである。この見解は、しばしば方法論的個人主義と呼ばれるものだが、私見では自明に真である(trivially true)」(Elster 1989, 13) [13]訳注:海野道郎訳『社会科学の道具箱』ハーベスト社、p. 14。訳文は改変している。 。ここでの「自明に真」という言葉は、日常語として、「至極当然の考え方(platitudinous)」という意味で使われているのであって、哲学の術語としての「トートロジー」という意味で使われているわけではない、と理解すべきだ。というのも、エルスターは、自身の方法論的個人主義へのコミットメントから、数々の非常に実質的な主張を導いているからである。例えば、エルスターは様々なところで、方法論的個人主義にコミットする以上、社会学は心理学に還元できるという主張を支持せざるを得ない、と述べている(ただしこの主張の論拠は提示していない)。

エルスターは、方法論的個人主義へのコミットメントと合理的選択論へのコミットメントとの間に、本来引けたはずの明確な区別を引いていない。実際、エルスターは、合理的選択論への支持は方法論的個人主義から直接導かれる、と考えてもいる。しかしながら、エルスターが支持するタイプの合理的選択論は、伝統的な、合理性の道具的構想、ないし「ホモ・エコノミクス」的構想〔いわゆる道具的合理性〕に基づくものだ。「行為はそれ自体で評価されたり選択されたりするわけではなく、なんらかの更なる目的を達成する手段としてどれだけ効率的か、という観点から評価され選択される」という主張を見る限り、そう考えてよいだろう(Elster 1989, 22) [14]訳注:海野道郎訳『社会科学の道具箱』ハーベスト社、p. 24。訳文は改変している。 。エルスターによると、適切な性質をそなえた選好順序を有する行為主体の合理的行為が「効用関数の最大化」として表現できる、という事実自体に、合理性の道具的構想が含意されているという。だが、効用最大化が道具的合理性を含意するか否かは、どのタイプの期待効用理論を採用するかに依存する。リチャード・ジェフリー(Jeffrey 1983)らが唱える、「世界ベイズ主義(world Bayesian)」と呼ばれるタイプの意思決定理論は、合理性の道具的構想へのコミットメントを含んでいない。なぜなら、世界ベイズ主義は、行為主体が行為それ自体に対して選好を持つことを許容するからだ。それゆえ、方法論的個人主義から真っ直ぐに合理性の道具的構想を導こうとするエルスターの議論は、飛躍した推論に基づいている [15]訳注:道具的合理性と世界ベイズ主義の関係については、ヒース『ルールに従う』第3章の第3節により詳細な議論がある。

にもかかわらず、エルスターがこのような議論を行ったせいで、多くの分野において、方法論的個人主義は合理的選択論へのコミットメントと同義として扱われるようになってしまった。このような方法論的個人主義と合理的選択論の同一視は概して、ウェーバーが区別した2つの方法論的論点を区別し損ねている。すなわち、行為理論レベルでの説明を与えることにコミットするかという論点と、行為理論レベルでどんな合理的行為のモデル(すなわち理念型)を用いるかという論点である。この2つの論点においてどんな立場をとるかには、複数の組合せがある。例えば、方法論的個人主義にコミットしながら、合理的行為のモデルとして、合理的選択論のかわりにハーバーマスの「コミュニケーション的行為の理論」を採用してはいけない、という理由はない。実際、そのような理論的選択はずっと理に適っている。というのも、厳密に解釈すれば、ゲーム理論はそもそも、合理的行為の一般理論を標榜してこなかったからである。ナッシュ均衡という解概念(ゲーム理論における均衡の標準的定義)は、例えばプレイヤー間のあらゆるコミュニケーションを排除している(そして、コミュニケーションが導入されれば、この解概念は機能しなくなる[Heath 2001])。したがって、合理的選択論帝国主義を巡る論争の大半は、(多くの場合、擁護者も批判者も)合理的選択モデルの限界を十分に評価してこなかったために生じたものだった。

心の哲学においては、「方法論的個人主義」という語は、ジェリー・フォーダーが心的状態の個別化(individuation)に関して展開した主張と結び付けられることが多い(Fodor 1980, 1987, 42)。だが強調しておくべきは、フォーダーによる「方法論的個人主義」の用法と、〔本エントリで見てきたような〕社会科学の哲学における伝統的な用法との間には、全く共通点がないということである。フォーダーは、「方法論的個人主義」と「方法論的独我論」との区別を経由して、この語を導入している。フォーダーの議論は、ヒラリー・パトナムの提示した双子地球問題の様々な変奏に対処することを目標としていた。双子地球問題とは次のようなものだ。この地球上では、水はH2Oによって構成されている。一方、並行宇宙の地球では、水は全く同じ見た目やふるまいをするのだが、XYZによって構成されている。このとき、この地球上で水についての信念を持つ人と、並行宇宙の地球で水についての信念を持つ人は、同じ信念を持っていると言えるだろうか。「外在主義者」は、両者の信念は同じではないと考える。一方、フォーダーのような「内在主義者」は、両者の信念は同じであると主張しようとする。ざっくり言えば、信念の内容は主体の頭の中にあるものによって決まるのであり、世界の側にあるものによって決まるのではない、というのが内在主義者の主張だ。

この問題は、心的状態の個別化を巡る問題に帰着する。私たちはどうやって、ある信念が「同じ」であるとか「同じ」でないとかと決定しているのだろうか? ここでフォーダーは、彼が「方法論的個人主義」と名づけた制約を導入するところから議論を始めている。これは、「心的状態は因果的効力に照らして個別化される、という教義」だ(Fodor 1987, 42)。この制約は、ある心的状態が、他の心的状態と比較して、異なる事象を因果的に引き起こせないならば、この2つの心的状態は同一でなければならない、ということを含意する。「方法論的独我論」は方法論的個人主義よりも強い主張で、「心的状態は意味論的評価と無関係に個別化される」というものだ(Fodor 1987, 42)。この主張のまずもっての含意は、ある心的状態がある文脈において「真」であり、別の心的状態が「偽」であったとしても、この2つの心的状態は同一であり得る、ということである。フォーダーが続けて指摘するように、心的状態の意味論的評価は概して、世界との関係に依存する。例えば、水についてのある信念が真であるかどうかは、世界において水がどうなっているかに依存するだろう。そのため、方法論的独我論は、心的状態の個別化において〔意味論的評価という〕1つのタイプの関係的性質が一定の役割を果たすという可能性を排除することになる。それゆえ、方法論的独我論は、日常的な意味において「個人主義的」である。というのも、主体の頭の中で生じていることが、心的状態の個別化においてほとんど(あるいは全て)の役割を果たす、と主張しているからである。一方、方法論的個人主義は「関係的性質による心的状態の個別化を排除していない。それは単に、心的状態の持ついかなる性質も、関係的であるかどうかにかかわらず、因果的効力を及ぼさないならば、個別化において役割を果たさない、と主張しているだけだ」(Fodor 1987, 42)。そのため、フォーダーがこの立場を「個人主義」の一種と呼ぶ理由は非常に不明瞭だ。心的状態の個別化において役割を果たし得る関係的性質には、物理的世界だけでなく、他の発話者との関係も含まれ得るからである。

フォーダーによる用語選択は非常に不適切だ。フォーダーは、方法論的個人主義がなぜ「方法論的」制約であるのかという点に関しては、適切な説明を与えることができている。フォーダーによれば、異なる因果的効力を持つ対象に異なる名前を与えるというのは、「因果的説明を与えるという科学の目標からすぐに導かれるものであり、それゆえ、あらゆる科学的分類が従うべきものだ」(Fodor 1987, 42)。それゆえに、これは「方法論的」指針なのだ。(もっとも、ここには、フォーダーの意味での方法論的個人主義と、ウェーバーやハイエクの意味での方法論的個人主義との違いがくっきりと表れている。というのも、ウェーバーやハイエクにとっては、単なる因果的説明を超えた何かを提供できるという社会科学者の能力こそ、行為理論レベルの分析に対する方法論的コミットメントを要請するものだったからである)。分からないのは、フォーダーがこれを「個人主義」と呼んだ理由である。一方、方法論的独我論に関して言うと、これが「独我論」と呼ばれる理由は理解できるが、なぜこれが「方法論的」なものなのかはよく分からない。実際、フォーダーは続けて、「独我論(心的状態の関係的性質による個別化を排除する立場と理解される)は、個人主義と異なり、科学の目標や実践に関わる一般的考察から導かれるものとは見なせない。『方法論的独我論』は実のところ、心に関する経験的な理論なのだ」と述べている(Fodor 1987, 43)。したがって、フォーダーの用語法において、「方法論的個人主義」は実のところ個人主義ではなく、「方法論的独我論」は実のところ方法論的なものではないのである。

社会科学の哲学において、方法論的個人主義に批判的な議論のほとんどは、ワトキンスの言う「基底レベル」の説明と「中間レベル」の説明(すなわち、行為理論的メカニズムを特定するタイプの説明と特定しないタイプの説明)との関係を問題にしている(Zahle and Kincaid 2019, 657; Hedström and Bearman 2011)。一般に、社会現象に関していかなる中間レベルの説明が可能であるにせよ、行為主体がどんなことを考えて行為を遂行したことでその現象が生じたのか、を知ることができればそれに越したことはない。この点に議論の余地はないだろう。問題は、そのような行為理論レベルの情報が欠けている場合、中間レベルの説明は多少とも不十分であるとか、非科学的であるとかと見なすべきなのか、ということである。この問いへの答えは、その人が広く社会科学のステータスや役割に関してどんなコミットメントをとるかに依存するだろう。とはいえ、ワトキンス式の方法論的個人主義が要請する基底レベルの説明には達していないにもかかわらず、非常によく用いられている、3つのタイプの社会科学的探究について触れておくのは有益である。

6.1 統計分析

次のような社会科学上の論争について考えてみよう。1990年代、アメリカの暴力犯罪は急激に減少した。当然、多くの社会科学者が「なぜ暴力犯罪は減少したのか」という問いに取り組み、この現象を説明しようと躍起になった。こうして、様々な仮説が展開された。警察官の数を増やしたから、コミュニティ・ポリシング(地域社会による警察活動)の実践が変化したから、犯罪者への量刑が厳格化したから、軽犯罪への寛容度が低下したから、宗教信仰が盛り上がったから、コカインの人気が下がったから、人口構成が変化したから、などなど。犯罪の減少は、異なる状況に置かれ、異なる取り締まり戦略を採用している様々な地域で生じていた。そのため、純粋な統計分析に基づき、異なる仮説を支持する〔あるいは否定する〕議論を組み立てることが可能であった。例えば、特定の取り締まり戦略を採用したことが犯罪の減少にとって重要だったという仮説は、ニューヨークとサンフランシスコが非常に異なる取り締まり戦略を採用していたにもかかわらず、両地域で犯罪率が減少したという事実と矛盾する〔したがってこの仮説は棄却される〕。こうして、犯罪が減少した理由を巡って、非常に洗練された論争が巻き起こった。様々な社会科学者が、様々なデータセットを生み出し、様々な方法で数値を分析して、自らの仮説を競合仮説と闘わせたのである。

この論争は、犯罪学における論争のほとんどと同様、ミクロ的基礎を欠いていた。人々が犯罪を犯すときにその心の中で何が起きているのか、種々の政策がその行動を変える可能性はどの程度なのか、を知ることができれば、確かにそれに越したことはないだろう。だが事実として、私たちはそのような情報を持っていない。実際、犯罪学者の間では、犯罪の「一般理論」など成立し得ないのではないか、というかなりの懐疑が存在する。にもかかわらず、犯罪学者が、20世紀後半のアメリカにおける暴力犯罪の減少を説明する要因として、人口構成の変化(つまり若年層の減少)という1つの要因を選び出し、他の仮説を棄却する、という状況は容易に想像できる。そして、これは、「中間レベル」の説明でしかないとしても、重要な教訓を引き出せるような真の学術的発見である、ということに疑いの余地はない。

加えて、方法論的個人主義の要請を満たすような「基底レベル」の説明が、統計分析に基づく「中間レベル」の説明に対し、何か興味深い知見を加えられるかは明らかでない。むしろ、中間レベルの説明から基底レベルの説明を導ける場合も多いだろう。例えば、統計分析によって、犯罪率が「刑罰の厳しさ」と「検挙率」の積の関数になっている、ということが分かったとしよう。このとき私たちは、犯罪者は合理的な効用最大化主体である、と推論するだろう。逆に、犯罪率は刑罰の厳しさや検挙率の影響を全く受けない、ということが研究によって示されたとしよう。このとき私たちは、行為理論レベルで、効用最大化とは別の何かが生じているはずだ、と推論するだろう。

また、行為理論レベルでの結果が、説明変数の観点からすると、ランダムであったり興味深いものでなかったりすることが示されるかもしれない。例えば、犯罪の減少は人口構成の変化〔若年層の減少など〕によって完全に説明できる、ということが分かったとする。このとき、犯罪者が犯罪を犯すときに何を考えていたかは、さほど重要でなくなる。重要なのは、どんな人口集団であれ、その中の一定割合が犯罪行動に繋がるような思考を持っており、そのような人々の数が減れば犯罪も減る、ということだ。犯罪者の動機は「ブラックボックス」のままであり、その動機を知るに越したことはないだろうが、それは人口構成による説明になんら興味深い知見を付け加えないかもしれない。結局、犯罪の動機は犯罪者の数だけ異なる、ということが明らかになるだけという可能性もあるのだから。だとすれば、犯罪の発生に関して、実際の犯罪者の志向的状態に基づく具体的な説明は行えるとしても、合理的行為の一般「モデル」のレベルで言えることは何もないかもしれない(この文脈で、ウェーバー的な意味での方法論的個人主義が、実際の個々人が抱いていた動機ではなく、行為主体のモデルという観点から行為を説明するものだったことを頭に入れておくのは重要である)。

6.2 志向性より深いレベル

今度は別の社会科学上の論争について考えてみよう。継親が養育下にある幼児を殺す可能性は、生物学上の親よりもずっと高い、というデータを巡って巻き起こった論争である。この現象に対して、方法論的個人主義の要請を満たすような基底レベルの説明を与えるとしたら、どんなものになるだろう? その説明はどれほど有益なものだろうか? 赤ちゃんを揺さぶったり、幼児を殴ったりするとき、その人が何を考えているのか想像することはさほど難しくない。そうした動機は馴染みがありすぎるほどだ。育児の際に激しいいらだちや怒りが湧き上がるというのは、ほとんど誰にとっても身に覚えのある経験である。だが、それだけでこの現象を説明したことにならないのは明らかだ。問題は、なぜあるグループ〔継親〕が他のグループ〔生物学上の親〕よりも、そうした暴力衝動を抑制するのに失敗しがちなのかである。幼児を計画的に殺害する人間などほとんどいないので、志向的状態のレベルでそれを説明することが可能なのかは明らかでない。志向的状態のレベルで何が起こっているかを〔メインの説明への〕補完として付け加えることすら、ちっとも有益でないかもしれない。問題は、幼児殺しという行動がほぼ完全に、志向性より深いレベル(subintentional level)で機能するバイアスによって生じていることだ(Sperber, 1997)。これが示唆するのは、志向的状態の観点からの説明は実のところ「基底」レベルの説明ではなく、志向的状態よりももっと深いレベルを探究する必要がある、ということである。

志向性より深いレベルの説明がどんなものになるか想像するのは難しくない。幼児の持つ子どもらしい(ネオテニー的な)特徴に対する人間の反応は、大部分、無意識的(involuntary)に経験される。この反応は非常に複雑だが、その中心的特徴の1つは攻撃性の抑制だ。そして、人々はこの反応の根底にあるものを上手く明示化できないので、子どもが「かわいい」と繰り返すことしかできない。もちろん、その反応の強さは、人によって異なるし、〔反応の対象となる〕子どもによっても異なる。それゆえ、生物学上の親は、継親よりも、自分の子どもをより「かわいい」と思う可能性がある。そしてこれが、生物学上の親は継親に比べ、子どもに対し危害を加える傾向が平均的にやや低くなる、という傾向として現れているのかもしれない。子どもに危害を加えるかどうかの判断の基盤を人々は明示化できない以上、志向的レベルにおけるどんな分析も、その行為の説明として大して役に立たないだろう。

さらに、こうした行動傾向をもっと「深い」レベルから説明することも可能だと思われる。最も明らかなのは、進化論的な説明が利用できることだ。進化論を参照すれば、親による子どもへの投資を包括適応度から説明できる(あるいは、「継親個体による嬰児殺し(new mate infanticide)」を性選択の観点から説明することができる)。この観点からすると、進化論的説明こそが「基底レベル」の説明であり、方法論的個人主義の支持者が推進している行為理論的説明は実のところ「中間レベル」の説明に過ぎない、という非難が生じるかもしれない。より一般に、志向的状態の起源をより深層にある要因から説明しようとする理論や、人間行動のほとんどは志向的状態抜きで説明できると主張する理論(例えば、信念のほとんどを「合理化」として、欲求のほとんどを「昇華」として扱うフロイト主義など)は、行為理論レベルでの説明を最重視すべきだという方法論的個人主義の要請を突き付けられても、微動だにしないだろう。

6.3 スーパーヴィーニエンス

ポパー以来、方法論的個人主義の支持者たちは、この制約を尊重しない社会科学的説明が、存在論的に疑わしい社会的実体を措定することになってしまうのではないか、と懸念してきた。スーパーヴィーニエンス(supervenience)〔付随性〕という便利な概念が登場したことで(「スーパーヴィーニエンス」のエントリを参照)、この問題はかなりの程度明確化され、方法論的個人主義の批判者たちは、存在論的主張と説明的主張とを区別する非常に明快な方法を手に入れた(Zahle 2007)。ある記述レベルYが別の記述レベルXにスーパーヴィーンしていると言われるのは、Xになんらかの違いがなければYにおいても違いが生じ得ない一方、Yにおいてなんら違いがなくてもXにおいて違いが生じ得る場合である。これを表現する標準的なやり方は、レベルYの状態はレベルXにおいて様々な仕方で実現され得る、と述べることだ。スーパーヴィーニエンスという概念は当初、心の哲学において、心理的なものに関する「非還元的唯物論」を表現する方法として人気となった。非還元的唯物論によると、全く同じ信念が様々な脳状態によって実現することはあり得るが、脳状態の変化なしに信念が変化することはあり得ない。

多くの社会理論家は、スーパーヴィーニエンスという概念が、社会的(あるいは制度的)事実と、個人の志向的状態との関係を表現する自然なやり方を提供していると見なしてきた。ここでの考え方は次のようなものだ。個人のレベルでなんら変化が生じていなければ、社会的事実も変化し得ない。だが、個人レベルの変化(例えば、ある人がその場を去り、別の人がその場に入れ替わる)は、社会的事実が変化していなくとも生じ得る。そのため、個人レベルの記述にスーパーヴィーンしている複数の社会状態の間に、〔社会科学的に〕興味深い説明的関係が成立し得る、との見地から、方法論的個人主義を棄却することが可能となる。スーパーヴィーニエンスという語彙がこの文脈で有益なのは、社会レベルでの実体に対するいかなる存在論的コミットメントもなしに、社会的なものの〔個人に対する〕説明上の独立性を措定できる(つまり、「非還元的個人主義」を採用することが可能である)、という点を明確にしてくれるからだ。

この例として最も明白なのは、社会状態が多重実現を許容する場合だ(Kincaid 1997, 33–34)。例えば、クリスチャン・リストとカイ・シュピーカーマン(List and Spiekermann, 2013)は、「社会的規則性が、個人レベルでの実現のされ方の変化に対してロバスト」である場合、方法論的個人主義を採用するのは不適切だろう、と主張している(List and Spiekermann, 2013, 629)。リストとシュピーカーマンは、これが満たされるための「全てが同時に組み合わさることで必要かつ十分となる」3つの条件を特定している(List and Spiekermann, 2013, 639)。

複数のレベルでの記述:当該のシステムは、異なるレベルの記述を許容する。この異なるレベルの記述のそれぞれは、レベルごとに異なる性質(例えば、個人レベルの性質と集計レベルの性質)と結びついている。

高次レベルの性質の多重実現可能性:当該システムの高次レベルの性質は、低次レベルの性質によって決定される。だが、その高次レベルの性質は、様々な異なる低次レベルの性質で実現可能であり、それゆえ低次レベルの性質で記述し直すことは不可能である。

ミクロレベルでの実現に対してロバストな因果関係:当該システムの高次レベルの性質の一部が関わる因果関係は、低次レベルでの実現における変化に対してロバストである。

リストとシュピーカーマンは、「民主的平和論」を例に挙げている(List and Spiekermann, 2013, 640)。「民主的平和論」とは、民主主義国同士は戦争をしないという仮説だ。この仮説は普通、協調と妥協の規範を何よりも重視する、民主主義に内在的な構造的特徴から説明される。だが、こうした特徴が低次レベルにおいて実現される仕方はあまりにも多様なので、個人に焦点を当てるような低次レベルの記述による説明では、重要な因果関係を明示できないだろう。

6.4 誤謬

社会科学者の間で方法論的個人主義へのコミットメントが採用されてきたまずもっての方法論的理由は、(19世紀の社会科学によく見られた類の)ある種の誤謬に対して警鐘を鳴らすためだった。中でもとりわけ深刻な誤謬は、集団の内部において集合行為問題が発生する可能性を無視した結果、集団の利益を同定するところから、個人にその集団利益を帰属させるところへと、あまりにも安易に「降りて」しまう広範な傾向から生じていた。こうした誤謬を避ける1つのやり方が、社会科学者に対して、常に参加者の視点からインタラクションを検討し、個々人の意思決定を支配している選好構造がどのようなものなのかに目を向けるよう求めることだったのだ。

同時に、行為理論的な視点を強調しすぎると、それ自体が別の誤謬を生じさせ得る、という点には注意しておくべきだ。社会学的探究における最も強力な資源の1つはまさに、大規模なデータの収集と分析によって社会行動を客観化・集計化する能力である。社会現象に対するこうした集計レベルの分析から導かれる結論は、行為理論的な視点からすると反直観的でありがちだ。行為理論的視点は常識に近しいため、その視点を強調しすぎると、集計レベルで生じる現象に関して誤った想定を生み出しかねない。アーサー・スティンチコムが古典的著作『社会理論を構築する』(Stinchcombe 1968)で考察しているように、社会現象の「人口統計学的説明」を構築するには、大抵の場合、日常的な「理解」の視点から離れる必要がある。個人の態度に過度に焦点を当てていると、そうした態度の特徴を集団全体に当てはめるという、不当な一般化に繋がるかもしれない(Stinchcombe, 1968, 67)。例えば、集団内での信念の安定性は、個々人の信念がどれだけ安定しているかにほとんど左右されない。個々人の信念は非常に不安定かもしれないが、両方向に等しい大きさで力が働いている限り、集団内における信念の普及率は変化しないだろう(68)。毎年、集団内の10%の人々が神への信仰を失うとしても、別の10%の人々が信仰に目覚めるなら、集団全体での信仰のレベルは変化しないことになる。これは自明のことに思えるかもしれないが、スティンチコムが言うように、「多くの人にとって直感的に理解するのが難しい」(67)ことであり、この点に注意を向けないことで誤った社会学的思考に陥ってしまうということはよく起こりがちだ。

行為主体の志向的状態を強調する行為理論レベルの分析は、進化論的推論と安易な仕方で組み合わさることで、かなりの問題を引き起こすかもしれない、ということにも注意すべきだ。よくある誤りは、理論家が次のような想定をとる場合に生じる。すなわち、個人の選好によって定義される「自己利益」を、特定の行動(ないし表現型)の生物的・文化的な「適応度」とすり替えて、個人の自己利益に貢献しないような行動形態は、生物的・文化的なレベルで作動するなんらかの選択メカニズムによって排除されるだろう、とする想定である。問題は、生物進化も文化進化もそのような仕方では機能していないということだ。生物進化が個人の利益を促進しないというのは、「利己的な遺伝子」理論の基本的な帰結だ(最も明白な例は包括適応度)。同様の理由で、文化進化も、個人の利益ではなく「ミーム」の利益を図る(Stanovich 2004)。そのため、進化論的視点は、社会理論家の多くが想定するよりもはるかに、合理性に基づく視点の放棄を求めている。それゆえ、方法論的個人主義はときとして、社会理論におけるある種のモデルやツールの利用が要求するような、社会現象の徹底した客観視を妨げるかもしれない。

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References[+]

References
1 訳注:ウェーバー『経済と社会』の第1章には、以下の邦訳がある。阿閉吉男・内藤莞爾訳『社会学の基礎概念』恒星社厚生閣、清水幾多郎『社会学の根本概念』岩波書店。
2 訳注:阿閉吉男・内藤莞爾訳『社会学の基礎概念』恒星社厚生閣、p. 26。訳文は改変している。
3 訳注:阿閉吉男・内藤莞爾訳『社会学の基礎概念』恒星社厚生閣、p. 20。訳文は改変している。
4 訳注:ウェーバーの“verstehende soziologie”は、日本語では「理解社会学」と訳され、英語では“Interpretive sociology”と訳される。この文脈では、「理解(understanding)」と「解釈(interpretation)」が同義で使われることも多い。
5 訳注:阿閉吉男・内藤莞爾訳『社会学の基礎概念』恒星社厚生閣、p. 23。訳文は改変している。
6 訳注:本田裕志訳『市民論』京都大学学術出版会、p. 175。訳文は改変している。
7 訳注:阿閉吉男・内藤莞爾訳『社会学の基礎概念』恒星社厚生閣、p. 10。訳文は改変している。
8 訳注:邦題は『行為の総合理論を目指して』。
9 訳注:渡辺幹雄訳『科学による反革命』春秋社、p. 42。訳文は改変している。
10 訳注:渡辺幹雄訳『科学による反革命』春秋社、p. 39。訳文は改変している。
11 訳注:マーガレット・サッチャーの有名な言葉。
12 訳注:“collectivism”はハイエクの文脈では「集産主義」と訳されるのが一般的だが、ここではより広い文脈を意識して「集団主義」という訳語を当てた。
13 訳注:海野道郎訳『社会科学の道具箱』ハーベスト社、p. 14。訳文は改変している。
14 訳注:海野道郎訳『社会科学の道具箱』ハーベスト社、p. 24。訳文は改変している。
15 訳注:道具的合理性と世界ベイズ主義の関係については、ヒース『ルールに従う』第3章の第3節により詳細な議論がある。

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