「あれ? ネイリストより飲食の方が楽しいかも」。美容専門学校のネイル専攻で授業を受けながら、そんな気づきを得て飲食の世界へと飛び込んだ若き看板スタッフがいる。東京・国分寺の隠れ家酒場『near(ニア)』で女将を務める八津尾 碧氏だ。
国分寺で『猿酔家(サスケ)』や『Salvador』といった繁盛居酒屋を展開する株式会社Romanが手掛ける『near』は、「内装はバーで、使い勝手は喫茶店、人と物は居酒屋」という3業態の良いとこ取りをした10坪・20席の空間だ。こだわりの茶割りやクラフトジン、本格派の創作蕎麦から手作りスイーツまでそろい、翌朝4時まで思い思いの時間を過ごせる場所として支持を集めている。
2025年8月8日のオープンから1年、来店客の約8割をリピーターが占め、深夜営業にもかかわらず男女比は5対5。なぜ彼女の周りには、男女問わず多くの常連客が自然と集まるのだろう。
常連には満面の笑み、新規客にはしっとりと。一人客5割の心地よい“距離感”
雑居ビル地下の隠れ家的な扉を開ける。まず広がるのは『食堂 猿乃拳(モンキーパンチ)』の店内だ。そこからさらに店舗奥の暖簾をくぐった先に『near』はある。
八津尾氏の第一声は相手によって緻密に使い分けられている。
「まず入ってきたときの挨拶から、常連さまにはめちゃくちゃ笑顔で『久しぶりー!』などと声をかけます。逆に初めてのお客さまには、少しトーンを落として『こんばんは』としっとり迎えるんです。最初はしっとりで、仲良くなったら砕ける、というのを意識して使い分けていますね」
来店客の約5割はお一人さまだ。一人で初めての店の扉を開ける緊張感をよく理解しているからこそ、八津尾氏は挨拶で軽くジャブを打ちながら、相手のタイプやその日の気分を瞬時に見極めていく。ただし、決して無理に輪へ引き込むようなことはしない。
「最初に『今日はどこから来たんですか?』『何軒目ですか?』と会話を広げるのですが、『あ、この人は静かに飲みたいタイプなんだな』と感じたときは、そこからあまり話しかけないようにします。それでも『あなたのこともちゃんと見ているよ』という感覚で、視線を配るようにはしていますね」
グラスの空き具合を見る目線や、追加オーダーの促し方にも『near』ならではの流儀がある。
「『near』では、グラスが空いてすぐ『次、何飲みますか?』と聞くのは常連さまだけでいいのかなと思っています。ご新規の方にはゆっくりお話ししながら、グラスが空いたら『これおいしかったですか? どうでした?』と感想を聞いて、『よかったら次これあるんですけど』と会話の中で次の提案をしていくように心がけていますね。お料理についても、2軒目利用のお客さまが基本的に多いので、いきなりおすすめを伝えるのではなく、まず『お腹空いてますか?』と聞くところから始めます」
メニューの質も、単なる深夜バーの枠を超えている。看板の蕎麦は定番から季節の限定品まで揃い、なかでも秋の「秋鮭といくらおろしの混soba」(1,800円)は、炭火で香ばしく焼き上げたサケの切り身に、イクラ、大根おろし、ネギをたっぷりと乗せた大人気の一品だ。
「ワサビを少しずつ溶かしていくと香りが広がっておいしいですよ」と声をかけながら、八津尾氏が器を差し出す。さらに、店名をもじったティラミス「ニアミス」(770円)や「フィナンシェ-アテ焼き菓子-」(2個660円)といったスイーツ類もすべて彼女の手作りだというから驚く。
最大20席を一人で回すため、工数の多い蕎麦の調理中に来店が重なると手が回らなくなる瞬間もある。しかし、そのピンチを救っているのも、彼女がこの1年で磨き上げた接客力と愛嬌だ。
「この1年間で一番身についたのは、やっぱり接客術です。楽しさと愛嬌があれば、お客さまはある程度待ってくれます。蕎麦を作っている最中にご来店があったら、まずは一度お席に通して、『何飲むか考えておいてください』『何がいい?』と先に注文だけ聞いておいて、後からドリンクとおしぼりを出すようにしています」
深夜の酒場でありながら客層の男女比が5対5であり、女性客だけで埋まる日もあるという事実が、彼女の気配りの深さを物語っている。
「やりたてのころは少し難しくて、男性のお客さまばかりに声をかけてしまうこともありました。でも、私が男性ばかりと盛り上がっていたら、女性はたぶん『何この店』と思って二度と来ないですし、デートにも使われないですよね。そう思われないようにすごく意識しています」






